第189回マーケティングサロンレポート「マーケターにとっての『人的資本経営』入門編 ― 国内第一人者に学ぶ ―」 |
第189回マーケティングサロン:春の三都市リサプロ祭り:東京会場
テーマ:マーケターにとっての「人的資本経営」入門編 ― 国内第一人者に学ぶ ―
日 程:2024年3月9日(土)16:00-17:20
場 所:一橋大学 千代田キャンパスおよびZoom使用によるオンライン開催
ゲスト:Unipos株式会社 代表取締役CEO 田中 弦 氏
サロン委員:村中 敏彦、関澤 充、竹中 信勝、芹澤 和樹、小坂 忠史
【ゲストプロフィール】
田中 弦(ゆづる) 氏
Unipos株式会社 代表取締役CEO
1999年ソフトバンク株式会社インターネット部門第一期生としてネット産業黎明期を経験。その後ネットエイジグループ(現ユナイテッド社)執行役員。2005年Fringe81株式会社を創業。MBOによる独立を経て2017年東証マザーズ(現東証グロース)へ上場。2021年10月にUnipos株式会社に社名変更し、個人の人的資本を発見し組織的人的資本に変えるUniposの提供を中心に活動。田中氏は、経営戦略と人事戦略を紐づけるための「人的資本経営フレームワーク(田中弦モデル)」の公開や、3500以上の人的資本開示情報を読み込んで導き出した独自の見解を数多く発信している。『心理的安全性を高めるリーダーの声かけベスト100(ダイヤモンド社)』著者。
【サロンレポート】
2023年に上場企業で人的資本の情報開示が義務化され、経営者の関心が一気に高まった「人的資本経営」について、国内第一人者である田中弦氏をお招きし、マーケター向けに解説していただきました。
1.人的資本経営が今、必要とされる理由
「個人の持つ人的資本(スキル・ノウハウ)を十分に発揮するための土台を再構築し、サステナブルな競争力を創出する経営」を人的資本経営であると、田中氏は定義。
今、これに取り組むべき理由として、日本に未曾有の人手不足期が目前に迫り、「あとで考える」時間がないこと、そして人的資本に投資することで人材が集まる企業となれるかどうかの分岐点にあることを挙げます。労働需給ギャップは2023年のほぼ0から、2030年に341万人不足、2040年に1100万人不足(出所:リクルートワークス研究所『未来予測2040』)へと推移するという衝撃的な予測も紹介されました。
海外の機関投資家の目には、日本は人口減に加えて、企業の組織風土が傷み、従業員の学習意欲が低く、無形資産を十分に活用できていない、と映ることからも、将来の企業価値評価に人的資本経営が直結すると、田中氏は看破します。
しかしながら、多くの日本企業では、「開示しやすい、見栄えが良い事項の開示」、「経営の意思が込められにくい、企業価値へのインパクトが薄い人事施策の開示」が継続する傾向が強く、このままでは、将来の企業価値向上の期待値をステークホルダーに伝えることができないと、田中氏は判断しました。
そこで、田中氏は自ら、人的資本開示の全数のべ5000社(有価証券報告書、統合報告書など)を読み込んで、格付けし、ベストプラクティスを類型化し、無償公開することで、学習時間の圧倒的な短縮を社会にもたらすことを着想。
経営アジェンダ整理のためのガイドマップとして、「人的資本経営フレームワーク」を開発し(図)、田中氏が経営するUnipos社が著作権を保持したまま自由に流通させています(クリエイティブコモンズ)。
組織的人的資本を創出するアクションをとるためには、個人能力を引き出すための投資と、カルチャー・集団への投資の両方に目配りすること、それを考える前段として、理想と現状の差分を課題として明確に記述することを、フレームワーク自体が要請しています。
2.マーケティング観点から考える人的資本経営
田中氏が約4000社の人的資本開示を分析したところ、90%以上のコミュニケーションは「我が社は最高です」ということを、主に「株主」に伝えています。差別化できてないコミュニケーションは、マーケティングとして失敗です。従業員や求職者の感覚ともズレており、経営者はウソつきだと思われかねない状況です。
マーケティング活動では通常、多くの選択肢の中から自社製品を選んでもらうために様々に工夫しますが、ほとんどの日本企業の人的資本開示では、人材獲得・育成競争に勝つという視点が欠如しています。しかも、各社で異なるはずの人事戦略が、統合報告書の中でオマケの位置づけにとどまっています。
人口減少・人手不足の影響や、外部環境の不安定さ(異業種参入、M&A、AIなど)が大きくなると、前例やセオリーに頼ることよりも、パーパスや中計を達成するための組織的遂行能力の獲得、および、希少性の高い能力の内部・外部からの獲得が、より重要になると田中氏は考察します。
こうした環境では、「わが社は最高です」というコミュニケーションではなく、「理想と現状の差分を課題として明確に記述し、アクション、アウトプットへとつなげる『課題解決型コミュニケーション』」が適していると田中氏は主張します。
3.有価証券報告書の全数読了による分析
人的資本開示が充実している企業は上場企業の約11%であり、50.5%は女性活躍・有給取得率等の数値のみの開示にとどまります。2023年度統合報告書の中で、田中氏による格付けが最高ランクの5とされたのは32社。田中氏はベストプラクティスを5つに類型化。ランク5の会社を中心に、当サロンで具体例を紹介しました。この具体例は、「わが社は最高です」とうたうのではなく、課題解決型のコミュニケーションを志向しています。
自社ならばどう開示するか、自社と照らし合わせて考えることを田中氏は参加者に推奨。格付けの低い会社が多く含まれる競合他社を見るだけでは不十分であり、人材獲得・育成の競争に勝つというマーケティング視点で、ベストプラクティスを参照することが有益だと説きます。
4.ベストプラクティスの5類型
(1)経営課題≒組織課題を提示、解決へ
「課題提示」が無いと「単なる打ち手紹介」となり、投資にリターンがあるのか、解決すれば企業価値が上がるのか、そもそも変化があるのかが分かりませんから、課題を明示することは重要です。
例えば、アステラス製薬は、ホワイトスペース(新しいアイデアを模索するためのリソース)の確保、エンゲージメント調査結果が「行動の開始」に結びつく投資を行うと、開示しています。住友ゴムグループは、「挑戦の気風が醸成されないこと」と「現状に甘んじる安住」に課題があると明記し、組織体質の改善に取り組むと表明しています。
(2)投資とリターンを分析し効果が高いものを優先取り組み
エンゲージメントスコアや従業員満足度調査の良い数字のみ開示する姿勢から脱却し、「なぜその投資が、その企業にとって有効な打ち手なのか」を優先順位付けしている会社が見られました。
例えば、レゾナック・ホールディングス(昭和電工が日立化成を買収して社名変更した化学メーカー)は、従業員調査で、「肯定的回答率が低く、エンゲージメントスコアとの相関が強い、要改善項目」として、従業員フィードバックへの経営陣の対処、キャリア目標達成、キャリア開発等を挙げ、これへの打ち手を提示しました。丸井グループは、ストレスチェックデータから、「社員が挑戦できていて、さらに能力を発揮できている社員」を分析し、「フロー(人の最大のちからを発揮できる状態)を生じやすい社員」の割合の目標水準を明示しました。
(3)KGIだけではなく中間KPIを提示する
投資家が期待している価値創造ストーリーを、独自のストーリーとして、その実現手法や経過を示すうえで、中間KPIを提示する手法は有効です。
例えば、マネーフォワードは、「管理職や今より大きな責任を負う業務をオファーされたらやってみたいと思う」気持ちが「レディ」になっているか(中間指標KPI)を開示することで、「社内の打ち手・コミュニケーション」と「対外コミュニケーション」の一貫性・整合性をとりました。富士通は、人事異動について、上長による推薦を廃止し、すべて本人による手上げ制に移行し、国内従業員8万人のうち2割以上が手上げを経験。これにより、「強みを活かせていなかった/成長を感じていなかった」という否定派のほとんどが、肯定派となりました。
(4)経営戦略を反映した独自指標を提示
その企業にとって最重要としている戦略に即した指標であればあるほど、独自の価値創造ストーリーは分かりやすく、納得性の高いものとなります。
例えば、人材獲得競争が激烈なゲーム業界に属するカプコンは、年収レンジを非常に詳細に開示し、年収400万~600万円の社員が激減したことや、一人あたりの株式報酬を公開。売上成長率より平均給与増額率が上回っていると開示しました。開示の視点を会社ではなく社員とすることで、「個人が持つ人的資本が活きる確かな土台」を提示したと、田中氏は評価しています。
(5)重点人材ポートフォリオ
サクセッションプラン(後継者育成計画)、キャリア自律、リスキリングといった複数の人事テーマを包含して語ろうという問題意識のもとで、重点領域の人材の配分・計画(ポートフォリオ)を提示する会社が現れています。
例えば、デンソーは、今後の企業価値を左右する重点項目(電動化やエネルギーマネジメント)と直結するスキルを可視化し、独自目標を設定。535分類の専門性やデジタルツール活用人材を定義し、そのレベル平均目標を設定。(2)で挙げたレゾナック・ホールディングスは、人材ポートフォリオ構築も事業戦略・財務戦略上の「課題」からアクションプランを策定しています。
このほか、日本企業のベストプラクティスにはない海外事例として、「倫理(ethics)はカルチャー」であり、心理的安全性や倫理感が高いことが経営戦略実現で有用とコミュニケーションしている会社が紹介されました。
【サロンを終えて】
ご講演の後には活発な質疑応答が行われました。特に、ベストプラクティス類型の3つ目として田中氏が提示した「中間KPIを示す」手法については、複数の質問者が挙手。
マーケティング部門を経験した人事部門所属者は、「将来管理職に『なりたい』比率(質問者の勤務先で採用)ではなく『なってもよい』比率で測定すべき理由ついて質問。もう一人、ブランドコンサルタントは、「不可逆的変化が生まれるとされる、KPIの数値が3割を超えるまでの道筋」について質問しました。
田中氏は、中間KPIは、変化をより敏感にとらえることができるカジュアルな指標とすることが重要であり、『なりたい』より『なってもよい』という尋ね方の方がカジュアルだと指摘。変化を起こす道筋として、カジュアルな複数のKPIを設定・観測し、おおむね3年がかりで進めることを念頭に、1年目に特に注力することを提案しました。実務家の疑問を喚起する講演であったと言えるでしょう。
講演の冒頭で田中氏は「普段は人事部門、経営企画部門、経営者に向けて講演しており、マーケティング関係者に講演する今回は、アウェイ感を感じています」と吐露していましたが、集合写真撮影後は、田中氏に挨拶を求める聴講者の長蛇の列が発生。田中氏は懇親会を含めて今回のサロンで新たに約20人と名刺を交換したとのことです。参加者にとって人的資本経営がアウェイからホームに近づいたと言えるのかもしれません。
今回企画したサロン委員は、人的資本経営によって日本企業がより良くなるためには、マーケターが人的資本経営により関心をもち、より深く参画し、マーケティング視点を注入することが有意義だと考えていました。今回のサロンが、そのきっかけとなるとすれば、とても嬉しく思います。
ご多忙の折、講演と懇親会参加を賜りました田中様、サロンにご参加いただいた皆様、初の3都市開催のリサプロ祭りの一環としてサロンを運営していただいた事務局の皆さまに、心よりお礼申し上げます。ありがとうございました。
(文責:村中 敏彦)